「しっぺい」太郎伝説と裸祭
今回は裸祭保存会として、裸祭は「しっぺい」と強い結びつきを持ちながら今のような姿で伝承されてきている、ということをみな
さんに知ってもらおうと思います。
「しっぺい」は磐田市イメージキャラクターとして定着して、磐田市のイメージアップに大きく貢献しています。「紅白の綱と褌を身に付け、ふくよかな体型をした」、「磐田の平和を守るかしこくて優しい犬で、メロンが好き」な白い犬。平成24年1月に市民投票の
結果を参考に「磐田巾イメージキャラクター最優秀賞」に選ばれ、それ以後の多くの市民に愛され、全国の人も親しみやすく、愛嬌のある「しっぺい」に注目してくれています。
この「しっぺい」は御存じのように、見付に伝わる悉平太郎伝説から、大阪府在住の田中みなみさんがイメージして作られたキャラ
クターです。 悉平(しっぺい)太郎伝説について磐田市の商工観光課のHPによると以ドのとおりになります。
「その昔、毎年、家の棟に白羽の矢が立った家の娘は、8月10日の見付天神の祭りに人
身御供(生きたまま神に供えること)として捧げられるしきたりがありました。村人たちは、祭りのたびに泣いて悲しみました。ある年、見付を訪れた旅の僧侶がこの話を聞き、このしきたりを無くせないものかと思案しました。
そして、これが怪物の仕業であることを突き止
め、怪物たちが「信濃の国の悉平太郎にしらせるな。」とささやくのを聞きました。そこで、悉平太郎が光前寺(長野県駒ヶ根巾)で飼われている犬だということが分かり、この犬を借りてきました。次の年の8月、祭りの日に人身御供の身代わりに悉平太郎を柩に入れて、見付天神に供えました。そして、怪物が柩を開けた瞬間、悉平太郎は怪物に襲い掛かり、長い格闘の末、怪物を退治しました。その怪物は大きな年老いたヒヒでした。その後、人身御供のしきたりはなくなったということです。」
そして、「磐田の民俗」(磐田巾誌シリーズ
第七冊 昭和59年刊)によると怪物退治をした後の村人たちの「歓喜踰躍(かんきゆやく)の舞」が裸祭の起源とする「説もある」
としています。
裸祭に関する近世文書については『裸祭の記録』(裸祭保存会 平成22年刊)に示されていますが、江戸時代にすでに「しっぺい太郎」伝説が語られており(「遠く見ます」天保3年 七世巾川団十郎)、裸祭についても鬼
踊の記載などが明確に確認できます。しかし、近世の文書においては悉平太郎伝説と裸祭とは並記されているに止まり、裸祭の起源を悉平太郎伝説に求める記述はありません。
明治近代以降の悉平太郎伝説と裸祭との関係については、青島常盤氏の一連の報告が
『磐南文化』(第36~42号)に掲載されて
います。『裸祭の記録』にも掲載されていますが、淡遠小史の「見付天神の裸祭」(『風俗画報』388号 明治41年)には、「此の祭典は昔時人身御供の遺風を存するものなりといふ。」として裸祭の起源を人身御供伝説と結びつけています。一方、明治40年に記された山中共古の『見付次第』には一人身御供の伝説は諸国に有るものにて、それがこの裸祭に関係せるものとも思はれず」とあります。山中共占は裸祭の起源を人身御供伝説に安易に結びつけることを諌めています。全く正反対の意見が明治40年頃に見られるのです。
文献的な究明はこのくらいにして、民俗学者の新谷尚紀氏(國學院大學教授)が『神々の原像』吉川弘文館 平成12年刊)の中で、人身御供の視点で見付天神裸祭の行事を見ると注目すべきものがあると言っています。
暗闇の中でのミシバオロシの榊を立てることが自羽の矢を、陪闇の中での神輿の疾走が人身御供の運搬を、各々連想するのではというのです。この新谷先生の御意見をみなさんはどのように思われますか。
江戸時代後期、宿場町として栄えた見付では人身御供伝説が語られ、シッペイ太郎の霊験が人々に強く意識されていました。この
宿場には見付天神裸祭という奇祭があり、この祭は他地域では見ることができない独特な内容をもったもので、その名は世間に響き渡っていたようです。明治近代に入り、裸祭の起源をシッペイ太郎伝説に求めるようになり、いつしか人身御供の恐怖から救われた見付宿の人々の喜びの踊りが鬼踊だという伝承が生まれてきました。伝統的な宿場をあげての祭礼と霊犬伝説とが結びついていったのは当然なのでしょう。
見付天神裸祭保存会
平成28年度版・裸祭ガイドブック第10号に掲載
『昔の祭物語』継承されていく天下の奇祭・伝説と裸祭
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